都内で働く30代の試行錯誤

田舎での生活に憧れています。 息子(0歳)がいます。

「洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇」を読みました

米本和広さんの「洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇」を読みました。

「洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇」米本和広

新興宗教・カルトの本は、神保タミ子さんの「脱会」を読んで以来2冊目。

宗教について、確固として信じるものがあると悩みや迷いが減ってラクなんだろう、本人がそれで幸せなら まぁ‥とも思う部分もある。けれど、こういう本を読むと、自分でその信仰を選んでいない2世の子どもや親(子どもにとっての祖父母)の言葉は本当に痛ましくて、絶縁という選択肢も含めて、周りに損失を与えたり傷つけることは多いよなぁと思いました。

 

あらすじ

ブックライブの書籍紹介文

なぜ、親たちはヤマギシ会に魅かれるのか。周囲からは「児童遺棄」とすら見られなくもないのに、なぜわが子を突き放し第三者の手に委ねてしまうのか。ヤマギシ学園の中ではいったい何が行われているのか? 表面を見る限り、ヤマギシ会は善意の人たちの集まりのように思える。いつもニコニコ顔でやさしく応対してくれた。しかし、一歩踏み込んで取材をしてみると、子どもたちの心を傷つけてしまう邪悪な集団のように見えてくる。(本文より)


対立や争いごとのない、金の要らない幸福な農村……ユートピア社会の実現をめざしたはずの共同体は、いかにして崩壊に至ったか。洗脳のかなめである「特講」をはじめて体験取材。人間の脆さとノンフィクションの底力を証明した、色あせぬカルト・ドキュメンタリーの金字塔。第29回大宅壮一ノンフィクション賞候補作。

洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇 - 米本和広 - 漫画・ラノベ(小説)・無料試し読みなら、電子書籍・コミックストア ブックライブ

 

ヤマギシの特徴

・村に入ると、食事・部屋・風呂・日用品など衣食住は無償で提供される。村内では貨幣は流通していない。

・欲しいものがあれば担当の係に「提案」し、係によって「研鑽」された結果、導入されるか決まる

・村に入るときには、現金や預金はもちろん 不動産・家財含めすべての資産をヤマギシに渡す。「返還要求は一切しない」という誓約書を書かされる

・村に入るときには仕事を辞め、村での仕事(農業・畜産など)に従事する。仕事は半年に1回程度変わる。場合によっては別の県の村に移動する。

・「無我執」「自他一体」が合言葉

 

感想・学び

ヤマギシの子どもについて

脱走した2世(=自分で選んでいない子ども)の取材は読んでいて苦しくなった。本当にかわいそう。

5歳で親からヤマギシの学園の幼年部(住み込み)に送られて、知らない大人と子どもたちと一緒に寝起きし、おねしょをすると冬の夜の寒空の下で裸で立たされ、口ごたえをしたら暗い知らない部屋に1人で閉じ込められる。小学生・中学生の間は、朝5時半に起きて、豚小屋の掃除や畑作業、農作物の袋詰めなどをやらされて、糞尿で汚れてもお風呂に入らせてもらえず地域の学校へ行く。放課後はまっすぐ帰ってきてまた作業。

中学卒業後は義務教育ではないから「高等部」という名の元、ずっと村でずっと作業。

ヤマギシは入村時に土地や家屋もヤマギシに渡す必要があるから、両親が村に入っている場合には住む家もなく無一文、村人以外との人脈が一切無い上に中卒。村で生きていく以外の選択肢を奪われている。脱走できた子は本当に全体の一握り(ひとつまみ)なのだろう。

子どもは心も身体もやわらかくて、あらゆることを吸収して、あらゆる経験から学んでいく。そんな時期に遊ぶ時間=試行錯誤の余地をまったく与えず、体罰でいうことを聞かせ続ける。子どもたちに学習性無気力を起こさせて操作しているとしているとしか思えない。それを「素直にハイと言える子」を育てると言い張る。こんなことが組織的に行われていたことに戦慄する。

 

「特講」について

ヤマギシに入会したり子どもを学園に預けるには7泊8日の「特講」に参加することが必須。著者の米本さんは潜伏取材のために特講に参加して、特講の内容やスケジュール・他の参加者の変化を明らかにしています。読み応え抜群。時系列に沿って詳細に書かれているので疑似的に参加しているような怖ささえ感じました。

特講では「無我執」=自我・執着を手放すこと を重視していて、この特講(洗脳)を受けることで、参加者の怒りが収まったり、虫嫌いが克服される様子が書かれていた。

「なぜ腹が立つのか」「なぜ嫌いなのか」と1つの問いを何時間も問われ続ける。参加者が理由を言っても「本当はどうか考えてみましょう」などと言って何度も問う。

最終的に「自分の考えに固執しているから腹が立つ(嫌いと感じる)」という回答以外だけが受け付けられる。

 

「怒りが収まる」「虫に動じなくなる」等の変化が本人の希望するところであれば、確かに役に立つと思う。

ただ、「なぜ?」に対して答えているのに「本当はどうだろうか?」と返すのは、「それは違う」と差し戻していることと同じ。自問自答する分には良いけれど、ヤマギシ側の人間だけが本当の答えを知っているような前提で特講が進んでいくところに、宗教だなあ、洗脳だなあと感じる。

「なぜ怒っているのか」「なぜ嫌いか」の問いに対する「本当はどうか」は、誰も知らない、あるいは自分だけが知っていることだと思います。

本では、特講による上記の変化に関する脳神経学者・精神科医の見解(「乖離」「離人症」など)も書かれていて、読むことで洗脳に対する正しい恐怖心を得られると思います。

 

そのほか雑感

ヤマギシでは「この下駄箱は使用禁止」の代わりに「この下駄箱は使いません」という貼り紙が貼ってあるらしい。「強制・命令をしているわけではない」というパフォーマンスらしい。子どもに禁止するときに「これは舐めないよ」「そっちには行かないよ~」という言い方をしがちだけど、同じかもしれない。子育てには一定 洗脳の色があることを自覚して「思い通りにしようとしない」ことを今まで以上に意識して接したい。

 

ヤマギシの村人は「ふわっとしていて、みんな同じことを言う。ロボットのよう」らしい。「無我執」を突き詰めるうちに尖っている部分が削がれたのだろうと思う。自分も社会人になって丸くなったなと思うけど、丸くなって良かった部分と、尖っていた頃のほうが好きな部分の両方がある。高校生の頃は世界のあらゆることに怒っていたのに、今は怒るべき不条理に冷めた態度を取ってしまうことがある。良くない。バランスよく尖っていたい。

 

ヤマギシの洗脳は、経済的な理由もあるとのこと。「(村人が)納得しないと動けないのでは(世の中の経済変化の)スピードに置いて行かれる」との記述に、一般社会でもそれはそうだと思う。新規事業への参入とか撤退とか、社員全員が腹落ちして進めるのは理想だけど、多くの場合に無理なのと同じで。そういう意味では「腹落ちしてなくてもちゃんとやる」ということも社会人にとって必要な能力だと思う。ある程度。(そういうことが頻繁に起きないように、共感できる組織で働きたい。お互いのために。)

 

・鈍感と敏感、それぞれにメリットとデメリットがある。自分がどんな分野において敏感(鋭く研ぎ澄まされていて)で、どんなことに鈍感(強く厚かましく気にしない)になりたいか自覚して、ありたい姿に向けて自分の意志で感覚を調整していきたい。

 

・こういうことを考えていくと、宗教や洗脳に取り込まれないためには「自分で決めたい」という欲求が必要なのかもしれない。